昭和46年03月21日 朝の御理解
御理解 第96節
「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸は立てられぬ、先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」
信心をさせて頂いておりますと、色々信心の無い人達が、神様を腐すと言うんですがね、悪口を言う、言ったりするような場面に遭遇することがあります。それほどは、まあ何も知らずに、言っておるんでございますからね。金光様の信心が、どんなものかも知らずに言つておるんですから。けれども私共、信者の立場で、信者氏子としての立場で、私共が悪口の対象になる、それがひては神様の事にまで、及ぶと言うようなことがあります。私共が悪口を云われるような、たとえば事がです、ね。
そのまま、神様の悪口になる様なことがある。だから、これは、私は神のひれいではないと思いますね。これが例えば私共が信心させて頂きます私共が、大いに反省しなければならないだけではない、神様に対してでもおおいに心からお詫びをさせてもろうて、改まつて行かなければならない。そこで私共は、これは自分の事は分かりませんもん、ね。又、じかに直接に、悪口は聞こえてこないでも、陰口を云われておると。それをまあ、こちらは平気でおる。ね。
例えば人から悪口を云われるようなことが元で、おかげを受けられないところの信者氏子、ね、人から悪口を云われるようなことがですよ、おかげの受けられない元であると、云う場合などは、これは神のひれいじゃないでしょう。これは本当に神様の顔にドロをぬるということを申しますが、そういう結果にしかなりませんし、自分自身も、おかげを受けることが出来ません。
長年信心をさせて頂いておって、いわば一角の信者でありますと、まあ自他ともに許しておる。所がです先は知つておらんんぞと仰つしゃるように、成程先は知ってはおらんけれども、先の方に何とはなしに光明が見えて来た。おかげを頂いてほんとにこういうおかげを頂く為であつたかと思うように、おかげを受けてくる。所謂神が顔を洗うてやる、というところの、おかげを受けるならば受けていきよるならば、それは悪口を云われておつたのも、それは神のひれいであつたと言う事が分かる。
あの時分な、皆んなから笑われたり悪口を言われたりしよったけれども、今はどうしてあんななおかげを受けてと言う様に神様が顔を洗うて下さる。神様が成程神は先を知つてはおらんと仰つしゃるように、先の方にそういうおかげになつてくる、ならそれはまあ有り難い事なんですけれども、そういうおかげに一向なっていかないとするならです、私共はひとつ耳を澄まして、私が言われておる悪口と言うものを聞き取らせてもろうて、ね、そこから大いに反省させてもらう事になりませんと。
神様に対してもご無礼、自分自身もいつまで経ってもおかげを受けられんと言う事になるのじゃないでしょうかね。信心のなかもんばつかり、どげなこつでん言うち、いうふうだけじゃない、ね、まあそげん言いよつたっちゃ、それも神様のごひれいと言う様なふうにはいけない。神様のごひれいではない、云うならば人の口には戸をたてられんように、次から次と悪口が広がって行く。そういう様な事がですね、これは金光教だけに限つた事じゃありますまい。
けれども、もうなんとはなしに金光教ち聞いただけで、毛嫌いをするという人があるのは、そういう事が原因になつておるんじゃないでしょうかね。あたしゃ金光様に参りよるとじゃなか、合楽の先生に参りとると、と言う様な人が、合楽にはいくらもありますですね。もう金光様ちゃもうふってん切られん、もうそれをふってん切らんにさしてしまうものが、そこにあったわけですね。きっとけれどもたまたま合楽に行つたら、合楽の先生のお話だけは素晴らしいから、お参りしよると云う人がありますです。
金光教ちゃもうふるふるすかんち。みてみなさいどこどこ自分とこの住んでおられる町のね、金光様を信心する奴どんが、あの人あの人、もうどれみたつちゃろくなやつは、おらんでしょうがち、つらから言われる。ね、金光教はすかんて。金光様を信心する奴どんが、もういつちょんすかん、ろくな奴はおらんとこう言う訳なんです。是なんかは矢張り私は神のひれいじゃないと思うですね。例えば同じ商売をさして頂いておつても金光様を信心しとる、うちんとが品物が悪うして値段が高かていうなら。
是はもうそれを、あすこは金光様を信心しよつてばつてん、品物が悪かそして高かち言うなら、是はいい悪いような悪口なのが、これは決して神様のひれいじゃないんです。それで繁盛するはずは、だから勿論ありません、とね。これは商売だけの事じゃありません。ですから神が顔を洗うてやるというほどし、例えばおかげを、もう長年信心をしよるけれども、おかげを頂いて本当に表れない。
どうしてじゃろうかと言う前にです、自分が例えば信心のない人達からでも悪く言う、悪口を言われておるようなことではあるまいかと、聞き耳を立てなければいけない、聞こえてこなくても。ちょいとあすこ、信心はしよつてばつてん、あの人はとてもこすかとか、ずるいとか、金光様の信心はそげなこつでよかのち、面から言われるような、例えば私どもの中身にそう言う様なものがありはしないだろうかと。
あたしゃこれは、ね、まあ人が悪口を言うても神様のひれいとこれ片づけただけではー生、神から神様から顔を洗うてもらうようなおかげになつてこないと。だけではありません、もういよいよ神様の顔に泥をぬると言う様な事にしかなってこないと思う。ね、信心をさして頂きよって、けれども、どうして信心さっしやらぁ、あげん貧乏さっしやらんならんじゃろうか、と。
例えば、ね、こちらは信心になっていきよる。熱心に信心する、けれども貧乏は続いておる。本当に、こういうことでは神様の顔にドロを塗る事だと、そんなことは決してない。そういう事は神のひれいです。そういうね、例えば人間が長ければ長いだけ人が、それをすれば、する範囲が広ければ広いだけ、これは神様のいうならば、まあ、宣伝しよるようなものです。ね。
そうしてそのあかつきにです、神が顔を洗うてやると云ういうほどしのおかげを頂いたときには、その悪口を言いよった人が、沢山であれば沢山であるほど、やっぱ金光様じゃな、ちゆうわけに、なりますもんね。ですから、その辺の所が大変、ま、難しい所。けれどもその貧乏がです、ね、おかげの受けられない物を持つておる為に、なら貧乏しておるのというのと、だったら同じ貧乏であっても違うでしょうが。ね。
なら例えば、まあ商売なら商売の事で言うたら分かりやすいから商売の事で言うとですたい、あすこは一つも繁盛せんと、ね、繁盛せんはず、信心のなかとんとこよりも、品物が悪うして値段が高かもん。そして親切がない。そして時には、こすかこつ、さっしゃる。例えばですね、それから繁盛するはずもないし、ねえ、それで悪口を言われておるならば、これは神のひれいじゃないです。
けれどもね実意丁寧ごまかしがない、ね、それでいてなおかつ修行が続いておる。ね、そういう場合の例えば修行の例えば貧乏なら貧乏と言うことであってもです、その中におかげを頂いておる人達が、の心の上にそれでもやはり、おかげをおかげと思わなければ、おられんおかげの中にあるです。もう本当に信心しようっても、いつまでんパツとしたことがないと、ね、まあ細々とではあるけれども、ほんとに神様に対して相すまん事だけれども、けれどもです、ね。
例えば、その日その日の立ち行きの上んでも神様のお働きの間違いのない働きを実感させて頂きながら、例えば貧乏が続いておると言うならば、もう本当に、芯から信心の稽古をさして頂いておるのであり、それをもしも悪口をいう人があるならば、それは神様の、そういうのが神様のひれいなんです。ね、けれども私どもが、なら、そこに反省してみてですたい、ね、成程、信心のなかとこんとよりも高か、品物もあんまり良うなか。してそのやることは実意ではないと。
例えばそう言う様なものが、自分の生き方の中にあるとするならです、必ず誰かが悪口をいいよると、あすこは金光様の信心をしよってんばってんと誰かが言いよるです、きっと。信心もいい加減なもんじゃと、あげんとが金光様信心者の中におるけん、金光様信心しょうごたなか、と言う者が必ず周囲におるです。だからそういう声を例えば聞こえてこないでも、そういう声を聞き取らせて頂いて、ね、改まる所は改まらしてもろうて、おかげを頂いていかなきゃいけない。
でないと神が顔を洗うてやると云うおかげにならん。なかなかねもう本気になる、なつて中々自分の事は分かりませんし、誰でも自惚れのない者はないですから、ね、自分の生き方は、もうよかつのごつ思うとるですから。ね。又はこんくらいの事はと、たかをくくっておりますから、ね。それではです神様の悪口を云う人が出来るだろう、そういう悪口であるとするならば、それはもう由々しき事になつてくると。自分が悪口を言われるだけじゃない。いわゆる、ね。
神様が悪口を言われなさり、金光教が悪かつのごと言われてしもうて、なんとはなしに金光様を分かりもせんなり、毛嫌いさしてしまうようになっては、それこそ神様のひれいに傷がつくことになる。けれどもこりゃ本当に考えてみますとね。やつぱ金光教の信心でも百年からなりますと、なんとはなしに、金光教まあいろんな宗教の中にですね、金光教は大体そういうような評判がいいですね。
あんまりあくがなんというですかあくがないという感じですね。金光教の信心はあっさりしとるさらっとしとる、だからばさらかその悪口を言うものもない。と言う事はある意味あいではあくの強いぐらいの宗教の方が、人がどんどん助かつておるという事実があるですね。あまりに金光教は、お上品過ぎると言われております。ね、だからあくが強い、あくが強いと言うのは悪いという意味ではないですよ。アクを抜くと言うアクですよね、そういう意味で合楽の場合なんかはあくが強いと思うですよね。
なんとはなしにあく、合楽臭といったようなものが、プンプンしておるような感じがします。ね、ですからその合楽臭をみんな悪口を言うとか、ね、金光教のそのあくを悪口を言うと云うのは、これは神のひれいです。本当のその良さと云うのに触れきらんなり悪口を言うんですから。もうちょいともう合楽に参るやつどんばつかりは、もうちょいとそら、しゅうねつか、しゅうねつかちゆうごたるふうに言われると、まあこう絶体、御ひれいです。だから、そういう悪口はそうに、言われなきゃいかん。
とても善導寺の原さん達、もうとにかく親子三人ずれで何十年間参り、ちょいともうほんにしゅうねつかち、いうふうな意味の悪口は必ず言われよんなはるです。けども是は素晴らしかです。ね、これは悪口の様であっても最後には必ず、いわば大きないわば宣伝になっとるです。そういうふうに参らせる合楽ちゆう所は、どげなとこじゃろうかと、まあ、皆んながそういう意味でです、大変こう好奇心を持っているですね。
ですからいつぺんちょいと見て、みげいきたいとか参りたいちいうもんは、その人達の周辺には、沢山あるです。だから是は皆さんの周辺もそげんあるです。日田の綾部さんが言われます様に私しがおかげ頂いたら、もう日田のもうそれこそ分限者という分限者は、みんな合楽に参つて来るじゃろうというておる。ね、ほう日田から毎日毎日もう、ぼうけとってじゃろうというぐあいに今、評判しておる。ね、ですからそりゃ悪口のようにあるけどもそれは御ヒレイです。
所がひとたびなら、おかげを頂いてなさらんか、その人達はみんな、私も私もとついて来るね。なら善導寺の原さんの場合、原洋服店なら原洋服店がね、隆々たるならおかげを頂かれるとしたらです、そういうふうに悪口を言いよった人達が悪、これは悪口という意味じゃないですからね。所謂神のひれいですからついてこなおられん。だからそういう意味のもうほんと私共何時までん参る事ばっかり参って、おかげ頂ききらんけんで、神様に対して顔に、神様の顔に泥を塗るように思いますと。
言った様なことやらは、無いわけです、ね。昨日も福岡の古屋さんが、お届けをしておられる中に、私は例えばあの月次祭、朝参りそして昼例えば色んな会合などに、お参りをさして貰うその一つ一つが盲絶体おんなじじゃないと言う事を、初めて分からして頂いたというお届けがあっとります。例えば昨日は総会なら総会、だからもう朝参りを、ちっとばつかり遅れちから9時頃から参ろ、すと10時からじゃけんで総会には参つて丁度よかけんでと。そういうものでゃ決してないち。
うんもう朝の特に昨日の朝の御祈念、御理解を頂かれて、ね、朝参りがいかに信心の稽古にかようて来る事だと、云うことが分かられて、ね、昨日の朝の御祈念に参つて来る人達は、(?)先生達こそね、もう時間が無いですから、おられましたけれども。他はみんな帰つて又、総会に出てきてますもんね。だからそういう所が合楽のアクなんです、いうならば。アクと言うのは所謂アクが強いちゅうのは、それなんです。ね、共励会になんかに、行かれるでも必ず行き戻りここに、みんなが寄る。
あげな事よそではなかです。けれども私がそれをやって、やってのけて来た事じゃから、皆さんもそれをやらにゃん。それはいうならアクなんです。けれどもそれがほんとうなんです。ね、古屋さん貴方よかことわかんなさったですね、と言うて昨日は二人で話したことです。そうですよちもう私の信心はもう絶対そうです。ね、朝の御祈念とお月次祭と色んな会合で出てくる信心の会合とか、是はもうその一つ一つが違うんだと。
にかん、いつかんするような事であつてはならない事を、まあ芯から分からして頂いたと云うことを昨日いつておられます。ね、そういう信心をさして頂きよるとです、それこそ周囲の人が、どういうことを言うかというと、あの人は合楽にぼうけちゃる、と言うわけです。ほう朝参って又参るち、言うたふうに言うです。とても私だんそげなこつはできんち。そげん言いよるけれども、そういうふうな信心をして、おかげを頂くと、やっぱの、とこういうです。神のひれいです。
だからそういう意味においてのです、私の金光教はアクをもつて持つべきだと思うです。あまりお上品すぎる、まあ感じがします。ね、合楽なんかもです、そういう意味でです、あんまり、ね、アクがなくなつて来たころにはです、御ひれいが落ちるとです、ね。アクがある、強いからこそ、やはりそれはごひれいだから、おかげを頂いておるわけです。ね、だからそういう意味においての私は悪口ならば大いにひとつ、言われなければいけない。けれども神が顔を洗うてやる。
事にもならなければ、先は知ってはおらんぞと仰るなら、先はそれこそ夢にも思わなかった様な、おかげに展開して来ないとするならばです、ね、私は声なき声、声はありよるけれども、ここまで聞こえてこんとをひとつ耳を澄まして聞き取らせて頂いて、成程金光様の信心を頂いて、是だけのみ教えを頂いて、こういう生活の状態、生き方こういう根性こういう性根では成程、神様もおかげ下さる訳にはいくまい。成程人もついちゃくるまい、商売なら繁盛するはずが無いと、分からして頂かなければいけない。
だからそういうのがです、そう言う所がですあるですお互いに。ね、とそう言うのはなら本当の悪口である。ね、勿論それは戸はたてられんように、そう言う悪口がはびこつている、と言う事になると、ね、金光教の信心すらも、天地金乃神様までも悪口を言われなさらなければならん結果になってくると。これは大変なご無礼だと、気づかせて頂いて、ね。御ひれいにならない悪口を聞かせて頂くことは、私自身の大いに反省さしてもらわなければならない事にもなるのですから。
気がついたら、反省さして頂いてね、おかげを受けていかなければならん。今日はまそう言う意味の所ね、そう言う悪口ならば大いに歓迎というような意味の悪口ならば、それはごひれいなんですね。けれども言われておる、例えば悪口がもし自分の耳にはいつた時に、自分の胸に突き刺すような自分が恥ずかしい思いをしなければならないような悪口であるなら決して、それはひれいにならん。
それこそ信心さして頂くおかげで、一つ改まらして頂いて、ね、信心さっしよらじゃつた前は、本当はあんな、いうならば、まあ、ずるい人なずるい人じゃつたけれども信心するごつならつしゃつたなら、なかなかね、人間、変わんなさったと、言われる悪口でなくて、褒められる位な変わり方をさして頂かなければ、私はいけないね。ね、今日は、そういう所に重点をおいて聞いて頂いたつもりですけれどね。
どうぞ